「色」の日本史 後編
色彩検定1級トピック「偉い色」の崩壊
中世に入ると、衣服の色文化は庶民にも浸透していきます。その大きな理由が、希少だった染料の代用品が使われるようになったためです。
ムラサキから取れる「紫」の染料はとても高価なものだった、というのが前回のお話でした。しかし、蘇芳や茜、藍などを使って紫に染め上げる「似せ紫」という色が登場しました。
最初のころは貴族の服用に、お歯黒に使う鉄漿(かね)と蘇芳を使って偽紫を作っていました。しかし、この鉄漿がとても臭いのです。鉄漿とは、酢酸と鉄を混ぜたものです。いや、本物の鉄漿を嗅いだことはないです。ですが、そりゃ酢で染めていたらひどい刺激臭でしょう……
というわけで貴族はこの染め方はギブアップして「黒橡染め(くろつるばみぞめ)」という庶民的な染め方に移行していくことになります。黒橡染めはクヌギの木を使った染色で、文字の通り黒いのですが、これを「え? これは紫ですよ?」ということで頑張って押し通しました。安いし。
この黒橡は古代からの黒染めの方法で、お坊さんの法衣なんかにも使われた、非常に質素な染め方です。聖徳太子の「冠位十二階」でも、一番上は紫でしたが、一番下は黒でした。
しかし、もうそんなことどうでもいいのです。さまざまな階級の人々がさまざまな理由で、さまざまな色を身に着け始めました。
江戸のニューカラー
江戸時代になると、色彩の幅はさらに広がっていきます。インディゴを含む植物、蓼藍(たであい)を使った蓼藍染めのような青の織物も広く普及しました。また、ベルリンで発明された合成顔料である「ベロ藍」も日本に渡来します。
ベルリンで発明されたから「ベロ藍」と呼ばれましたが、これは「プルシアンブルー」というものです。色の名前としても使われますが、もともとは顔料の名前です。「プルシアン」というのは「プロイセン(現在のドイツ)の」という意味です。
ベルリンかプロイセンか、どっちかにしてくれ!
ベロ藍は蓼藍の藍に比べて発色がよかったため、浮世絵などの絵画文化にも大きく貢献しました。葛飾北斎や、歌川広重の浮世絵にも多く使用されたベロ藍の色は「ヒロシゲブルー」などと呼ばれたりします。
また、ベロ藍に対して、蓼藍で染めた藍色を「本藍」と呼びました。
【ふたつの藍色】
- 本藍(蓼藍による青)
- ベロ藍(合成染料)
華やかな文化が花開く江戸の時代、一方で幕府は倹約を強制するお触れを何度も出していました。いわゆる「奢侈禁止令(しゃしきんしれい)」ですね。これは古代の色階級などと違って、身分は関係ありません。
というか支配階級である武士が質素倹約がモットーの人々なので……
紫や紅など、派手な色に染められた着物も、規制の対象になりました。残ったのは「藍」「茶」そして「鼠(灰色)」……
転ばされてもタダじゃ起きない江戸っ子たちは、地味の代名詞ともいえる「茶色」や「鼠色」を使って、おしゃれを楽しみ始めたのです。
茶色だけで48色、灰色は100くらいのバリエーションを使用した、という意味の「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねず)」という言葉まで生まれました。それはあながち嘘でもなく、
- 団十郎茶
- 芝翫茶(しかんちゃ)
始めとして、新たな茶色を表す名称も生まれます。
西洋の「色」との融合
明治時代以降の色の歴史は、西洋の色文化、色彩学の輸入の歴史です。鎖国をやめ、積極的欧州文化取り込みに舵を切った日本には、多くの新しい顔料や染料がなだれ込みます。色料だけではなく、油彩や水彩の技法も入ってくることで、色を使った表現の幅は飛躍的に広がっていくのです。
最後に取り上げるのは色彩教育です。
明治政府は始め、小学校の授業に「色図」という色彩教育を組み込みました。 色についての授業です。なんと先進的かつ革新的なのでしょう。
しかし、この「色図」の科目は10年持たずにカリキュラムをクビになります。
難しすぎるのです。まず、当時使われていた筆記用具、画材は基本的に「墨」であり、色彩のある絵の具はとても庶民が手を出せる代物ではありませんでした。その上で三原色や混色について教えられても訳が分かりません。そもそも急に教えろと指示された教師の方も、十分に理解して授業に臨めたとは到底思えません。
西洋の色彩学を子供の教育に取り入れて文化国家を作り上げようという新生明治政府の心意気はすばらしいかったのですが、残念ながら皆がついて行けるわけではなかったのです。
しかし明治もしばらくたち20世紀になったころ。アメリカやヨーロッパに留学して美術教育を受けた白濱徴(しらはまあきら)によって、小学校のの教科書に色彩が彩度取り入れられることになります。この教科書は昭和に入るまで長く使われ続けました。
白濱徴の図画教授法