「色」の日本史 前編
色彩検定1級トピック古代の「色」
日本で色の概念が生まれたのは紀元前の遥か昔。最初に言葉として認識されたのは、
アカ、クロ、アオ、シロ
の4色とされています。漢字で表すと、
明、暗、漠、顕
で、これらは光の色(つまり明け方から夜までの空の色ですね)を示していたと考えられています。アカ(明)とクロ(暗)、アオ(漠)とシロ(顕)がそれぞれ対応する言葉となっていますね。
さて、時代はもう少し進んで、紀元後数世紀。
邪馬台国の卑弥呼の記述で有名な中国の歴史書『魏志倭人伝』に、日本からの献上品として、赤と青に染めた織物の記述がみられます。この時代から染色の技術があったわけですね。
使われた染料としては、赤は根っこを染料として使用される茜(ニホンアカネ)、青は山藍(ヤマアイ)を使用したと考えられています。
が、
この山藍が問題でして。ヤマアイで布を染める山藍摺(やまあいすり)は日本最古の染め方の一つで、万葉集なんかにも登場しているのですが、ヤマアイはインディゴの成分を含まないので、絶対に青くならないはずなのです。よって、このヤマアイによって染められた「青」とは現在の緑なんじゃないかとか、山藍摺で使われていたものはヤマアイじゃなくて別の植物なんじゃないかとか、色々説があります。
ちなみにアカネはこんな感じです。
写真はインドアカネで、ニホンアカネの赤とは少し違いますが、参考までに。
このような植物の根以外にも、古代の日本人は貝殻や石灰、木炭など、さまざま顔料(つまり水に溶けない有色の粉末)を使って生活を彩っていました。
上でお話しした山藍摺のような摺り染めは、顔料を布に擦りこむ染色方法です。一方で布のように顔料を擦り込めない装飾品には、漆と顔料をまぜた色漆(いろうるし)を使用していました。
中でも「赤」は魔除けなど、超常的な力があると信じられていたようで、硫黄と水銀から人工的な赤色顔料である「銀朱(ぎんしゅ)」が生成されるようになると、古墳の装飾などに使われたりもしました。血の色が赤いこともあり、神秘性があったのでしょう。
中国からの「色」の渡来
時代はもう少し進み、6世紀ごろ。古墳時代から飛鳥時代にかけてくらいですね。中国から「彩色紙墨(さいしきしぼく)」つまり絵具と紙と墨が伝来した、と日本書紀に記されています。
え? 紙と墨って、もしかしてそれまでは日本には文字がなかった?
いえ、もっと昔から文字はありました。日本史の教科書を思い出してください。古墳から出てきた銅剣なんかにヤマトタケルノミコトみたいな漢字が彫られていたと思います。文字自体はすでに渡来人が日本に伝えていました。しかし、紙と墨、つまり書物などが本格的に日本に渡って来るのは、仏教の伝来が大きく関係していました。
さて、ここで中国から、色が持つと考えられている意味も伝わってきます。「五色」の考え方は、陰陽道の五行思想と結びついています。「五色」とは「青、赤、黄、白、黒」のことで、それぞれ五行思想の元素である「木、火、土、金、水」と結びついています。
- 木:青
- 火:赤
- 土:黄
- 金:白
- 水:黒
太陽系の惑星(水・金・地・火・木の逆順)ですね。 わざわざ覚えなくてよさそう! と思いきや、木と青、水と黒なんかが、イメージが全然結びつかない、というオチです。
日本に伝来したものは他にもあります。とても大事な染料です。それが
蘇芳(すおう)
です。これです、これ。
マレー諸島原産のこの植物は、煎じることで暗い赤紫のような色で染め上げることができます。JISの慣用色名では、「蘇芳色」は「くすんだ赤(マンセル値 4R 4/7)」と規定されています。
この蘇芳は、織物だけではなく紙や木も染められました。正倉院宝物殿には、蘇芳染めの工芸品が収められています。
おまけですが、美術書専門の出版社、紫紅社さんのWebサイトでは、蘇芳染めの壁紙が配布されています。興味があればぜひ覗いてみてください。
紫と黄色の服
色に関する思想で、陰陽道よりももう少し実用レベルで取り入れられたものがあります。それが、衣服の色です。
聖徳太子が定めた「冠位十二階」を覚えている方もいると思います。偉さによって帽子の色が違うよっていう、アレです。一番偉いのは「紫」です。
また、奈良時代には「衣服令(えぶくりょう)」が定められました。これは唐の法律をほぼ丸パクリしたものです。衣服令の中では、朝廷でのフォーマルスーツである礼服(らいふく)の色を、こちらも偉さによって指定しています。そして、やはり一番偉いのは「紫」です。
ちなみに、「冠位十二階」も、「衣服令」も、同じ色でも濃い色、薄い色に分けられていましたが、偉いのは濃い方です。染料と手間がより必要なので、なんとなくそんな感じはしますが。
では、なぜ紫が一番偉いのでしょうか?
中国含め、紫の染料は「紫草(ムラサキ)」という植物でした。紫色が出せる植物だからムラサキという名前なのではありません。蘇芳色と同じで、
群れて咲く「ムラサキ」という植物で染めた色が「紫色」なんです。
このムラサキが、とても数が少なく栽培も難しかったため、それで染めた紫色が高価な色となったわけです。紫は西洋でもエレガントな使い方をされていたりと、なんというか、ミステリアスな色です。
紫が高価な色として扱われた一方、特殊な色として扱われた色があります。それが五色にも入っている、「黄色」です。中国では隋の時代から黄が最上位の服の色とされ、唐の時代になってから、「赭黄(しゃおう)」の袍(ほう)は皇帝の専用着になりました。
この黄色の特殊性も日本は取り入れ、平安時代初期には「黄櫨染(こうろぜん)」の袍が天皇の束帯の上着となりました。また、黄みの緑である「麹塵(きくじん)」の袍や、皇太子用に赤みの黄色である「黄丹(おうに)」の袍などが定められました。
でもやっぱり黄色なんですね!
あまり今では、黄色を「最上の」色としてとらえることはない気がしますが、かつては太陽の色として神性を持っていたわけです。
このような自由に使用できないよう規定された色を「禁色(きんじき)」といいます。黄櫨染などは、平安時代中期に編纂された法典『延喜式』で定められています。この『延喜式』では、階級による使用色や、当時の染料の材料や分量の記述が見られます。
この『延喜式』は、法典ではあるものの法律の実効という観点ではあまり力がなかったようで、結果的に朝廷の儀礼などに関するルールブックのような側面が強く出ました。めちゃくちゃ勝手なイメージですが、ザ・平安時代の法典、という感じで面白いですね。
さて、平安時代の服の色といえば、忘れてはいけないものがありますね!
そう、十二単(じゅうにひとえ)の通称を持つ、女性の正装です。表裏複数色の衣を重ね着することで色目の美しさを演出しました。これを「かさね」といいます。また、実際に用いられた配色を「襲の色目(かさねのいろめ)」と言います。
この新しい日本的なファッション文化が熟成していくと共に、「あの人は冬なのに夏みたいな衣のコーデで、四季感がないひとねえ」とか「私は美しさのために衣を追加で10枚も重ね着してるのよ! ただし重くて動けないわ」とかいった女たちの熾烈な(?)戦いが繰り広げられました。